経験が、人を変える。地域が、人を育てる。/ 杉澤教人さん
株式会社大志建設の代表、杉澤教人さん。造園・土木を中心に建設工事全般を手がけるかたわら、地域活動やまちづくりの場にも長年関わり続けてきた。
沼津ジャーナルでは2017年にも取材している(記事はこちら)。
あれから9年、何が変わり、何が変わらなかったのか、、、、
業種や世代を超えた人たちが毎週火曜夜に集う交流の場「火ヨル」に登壇した杉澤さんに、お話を伺った。
「人は経験というフィルターで、世界を見ている」
杉澤さんがこの言葉に気づいたのは、友人たちと信玄餅の工場を訪れた時のことだという。
同じ場を歩き、同じ景色を見ているのに、食品業界の人間には製造ラインがコントラストが強く見えた。
製造園業の自分は、他のことが気になった。
帰り道、それぞれが語る感想はまるで違った。
「見ている世界が、全然違うんですよ」

では、その「フィルター」は何が決めるのか。
杉澤さんの答えは一貫している。
経験だ。
「与えられた命」という、根っこ
自己紹介が祖父の話から始まることに、杉澤さんの軸が表れている。
大東亜戦争末期、満州に出兵していた祖父は「体が小さい」という理由で、戦友たちより一本早い列車に乗るよう促された。
後続の列車に乗った戦友たちはシベリアへ抑留され、帰ってこなかった。
「もし祖父の身長が少し高かったら、私は生まれていない」。語り口は静かだが、その言葉の重さは確かだ。偶然に偶然が重なって、自分はいまここにいる。だから動かなければならない。何かをしなければならない。「与えられた命」という感覚は、杉澤さんの行動原理の底にずっと流れている。
人前に立つことが、怖かった
意外に思う人もいるかもしれない。この夜、会場を笑わせ、時に静まり返らせながら語り続けた杉澤さんが、小学校と中学校の経験で、人前に出ることがひどく苦手だったと言う。
「かっこいい大人になりたかった、という一心だったんです。」
27歳で青年会議所(JC)に入ったのも、憧れる大人に近づきたいというシンプルな動機からだった。
表に出る。役を受ける。それは当時の杉澤さんにとって、決して楽ではない選択だった。

「心的には負荷がかかることばかりでした。でも、結果それが良かった。
かっこいい先輩にたくさん出会えた。」
自信は最初からあったのではない。
動き続けることで、あとからついてきたものだ。
「二度とないかもしれない」が、判断基準
JCでの活動は、杉澤さんに次々と「非日常」をもたらした。浜松の全国大会では皇族の椅子引き係を務め、豪華客船を借り切った8日間の研修では600人の責任者として毎日2時間しか眠れなかった。
ゴビ砂漠で木を植え、ニューヨークの国連本部で円卓会議に座り、ロシアのサハ共和国で副大統領と握手をした。
「逃したら二度と経験できないかどうか、を基準にしています。」
その判断軸は今も変わらない。福岡・宗像の沖ノ島に入島できたのも、世界遺産指定の前年、「その年限り」の機会だと聞いて動いたからだ。女人禁制、草木一本持ち出し禁止、訪れたこと自体を他言してはいけない――その場に立った時の、神気のようなものを杉澤さんは今も忘れられないと言う。
役を受けること、ヘイトを引き受けること
観光協会の理事、県立高校の評議員、フェンシング街づくり協議会の会長、PTAの役員。
なぜそれだけ多くの役を引き受けるのか。
杉澤さんの答えは明快だ。
「役を受けることで、いろんな人と知り合える。その経験が自分を成長させる。
成長した自分が、近くにいる人を守れる。家族を守れる。会社を守れる。」

東日本大震災の支援で訪れた岩手・大槌町で、物資が届いているのに配れない状況を目にした。
采配を振るえる人間が津波で失われていたからだ。誰かが仕切らなければ、地域は動けない。そして仕切る人間は、ヘイトを引き受ける覚悟が要る。
「やたら威張ってるように見えても、その人がいるから地域が回っている、ということがある。そういう人を、ちゃんと見てあげてほしい。」
自社に「地域貢献手当」を設けたのも、その延長線上にある。
PTAの役員を務める社員、消防団に入っている社員に毎月手当を支給する。
「地域に出て、経験して、成長して、また会社に持ち帰ってほしい。それが会社も地域も、両方を強くすると思っているので。」
この街に、惚れている
杉澤さんが沼津のリノベーションまちづくりに関わり始めたのは2015年のこと。
市役所の担当者に誘われ、浜松での公開プレゼンを見たのがきっかけだった。
以来ずっと、「橋渡し役」を買って出てきた。
横浜で家具修行をして沼津で独立を目指す若者がいると聞けば、先輩の木工所を紹介して場所を使える仕組みをつくる。
戸田で宿を始めたいという移住者がいれば、地元の人との間に立って信用を担保する。

「よそ者・若者・馬鹿者がまちを変える、とよく言われます。でも正直、すごく他力本願な発想だなと思っていて。そういう人たちが輝くために、知識も経験も人脈もある人間がそばでサポートする。それが私のまちづくりへの関わり方です。」
「沼津市役所には変態が多い、と私は思っています。褒め言葉です。
本気で地域のために動いている職員さんがいる。
そういう人たちと一緒にやれることが、純粋に楽しい。」
「経験というフィルター」という言葉は、自戒でもあると杉澤さんは言う。
自分が見えていないものが、必ずある。
だから人と会い続ける。役を受け続ける。動き続ける。
9年前の取材で杉澤さんはこう言っていた。
「自分と関わりをもった人には少しでも幸せでいてほしい。」
その言葉は今も変わっていない。
変わったことがあるとすれば、その輪の広がりだ。
地域貢献手当は制度として根付き、フェンシングのまちづくりという新たな役割も加わった。
沼津の街そのものも、再開発など大きな変化の手前に立っている。
関わる場所も、担う役割も、9年前より確実に増えている。
それでも杉澤さんの立ち位置は変わらない。
誰かの隣で、橋を渡す側だ。

祖父の偶然の生還が、自分の存在を生んだ。
与えられた命を、与えられた場所で、全力で使い切る、、、
そのシンプルな覚悟が、50歳になった今も杉澤さんという人間をつくっている。
火曜の夜、PAS Oに集まった顔ぶれを見渡しながら、杉澤さんは最後にこう言った。
「こういう場に来ること自体が、もう経験です。誰かと出会って、何かが変わる。それで十分じゃないですか。」

