沼津を、もっと好きになる。/伊藤優花さん・水野響さん
地域おこし協力隊の二人が語った、それぞれの「ただいま」
地域おこし協力隊って、なんだろう、、、
「人口減少や高齢化が進む地方に、都市部から人材を招いて、地域の活性化を支援する国の制度です」と説明してくれたのは、登壇者のひとり、伊藤優花さん。
「外から来て勝手に地域を変えていくんじゃなくて、地域の中にどっぷり浸かって、一緒に盛り上げていく。そういう存在です」と水野響さん。
今年度、沼津市に採用されたのはこの二人。
水野さんが沼津市全域、伊藤さんが戸田(へだ)地区を担当する。
協力隊になる動機は大きく二つあると伊藤さんは言う。
ひとつはミッションの内容で選ぶケース、もうひとつは「その土地が好きだから」という理由で選ぶケース。
「私たちは完全に後者です」と、二人は声を揃えた。

当たり前の景色が、特別だと気づいた日
沼津市第五地区で育った水野さんの経歴は、少し変わっている。
ドッグトレーナーになりたくて農業高校へ進み、愛玩動物コースに在籍。部活はなぜかフェンシング部。
「かっこいいのと、みんな初心者だから入れると思って」という理由が、なんとも正直だ。
そこでスポーツの世界に触れ、アスルクラロや清水エスパルスのサポーターとして熱狂するうちに、「できる人を支えるトレーナーになりたい」という気持ちが芽生えていった。

専門学校で柔道整復師の国家資格を取得後、名古屋の企業へ就職。
コロナ禍の中、生まれて初めての一人暮らし、生まれて初めての名古屋で「毎日泣いてた」と笑う。
その頃にピラティスと出会い、「運動音痴な私でも動けた。しかも身長が3センチ伸びた」という体験から、運動の楽しさを広める仕事に本気で向き合うようになっていく。
転機は25〜26歳のころ。
「なんか自分の使命って何だろう」と考えはじめた時期に、ふと気づいた。
「私って、関わった人と地元をハッピーにしたいんだ。沼津に戻りたいんだ」。
名古屋にいながら、月に一度は沼津に帰っていた。先輩に「なんでそんなに沼津好きなの」と聞かれても、うまく答えられなかった。
でも帰ってきてからようやく、言葉にできるようになった。
富士山が見えると、北の位置がわかる。千本浜の石が波に揺れてコロコロと鳴る音は、砂浜ではなく石浜の沼津特有のもの。
松林に入るとピタッと風が止まる。あわしまマリンパークには、船でしか行けない水族館がある。
名古屋で転んだとき、誰にも助けてもらえなかった。沼津で転んだとき、近所のおばちゃんが荷物を拾ってくれた。
「当たり前すぎて、ずっと気づかなかった。でも当たり前じゃなかったんです、全部」

Uターンのきっかけをくれたのが、ビューティージャパン静岡大会への出場だった。
そこで同期が「藤枝の地域おこし協力隊なんだよ」と教えてくれて、初めてこの制度を知った。
「それ、響ちゃんに絶対合うと思う」という一言に背中を押されて、沼津へ戻ることを決めた。
歴史オタク女子、戸田に飛び込む
一方、伊藤さんの自己紹介は、ひとりの幕末の人物から始まった。
「この方、知っている方はいらっしゃいますか?」とスライドに映し出されたのは、江川太郎左衛門英龍。
裾野市出身の伊藤さんが中学生のとき、沼津の展示会でこの人物のパネルを見て、人生が変わった。
気をつけや前ならえの号令をオランダから取り入れた人。
日本で初めてパンを焼いた「パン祖」。
お台場を作った人。そして、幕末に戸田村でロシア人と共同でヘダ号を造船した人。
「なかなかすごい方です」という控えめな紹介が、むしろ笑いを誘う。
この人物が創設した韮山高校に通い、放課後は毎日のように裏にある江川邸の資料館へ通い詰めた。

東京外国語大学でロシア語を専攻したのは、ヘダ号の造船に関わったロシア人との交流を研究したかったから。
ところがコロナと戦争で留学も研究もままならず、途中から日本史の古文書研究に転向。
大学院まで進み、江川邸の古文書を読み解いた。
新卒で入った東京の会社は、10ヶ月で辞めた。
「東京にいた頃は、成果を出さなきゃ、キャリアを積まなきゃって、不安が常にあって」
戸田に来て、何かが変わった。
「戸田の人たちって、遊ぶために仕事してるんですよ。昼間しっかり働いて、夜は寝る間も惜しんで遊ぶ。その生き方が、すごくいいなって」

戸田の話になると、伊藤さんのトーンが一段上がる。
人口約2500人、高齢化率60%超。
スーパーもなく、買い物のために80〜90代のおじいちゃんおばあちゃんが峠を越えて車を走らせる、「陸の孤島」。
でも伊藤さんが語る戸田は、まるでエネルギーに満ちた別世界だ。
「戸田のおじさんたち、全員やりたい放題で生きてるんですよ」
ある夜中の12時、突然薪割り大会が始まった。
「昼間にやる薪割りは素人、夜にやる薪割りこそ正義」という名言とともに、60〜70代のおじいちゃんたちが凄まじい勢いで薪を割る。
毎夕、港では10〜20人が集まって夕焼けを眺めながら飲み始め、気づけば朝4時まで続く。
道を歩いていたら突然、納豆とドカンを手渡されたこともある。
なんでもありの戸田だけれど、「合ってるなって、毎日感じてます」と伊藤さんは笑う。
沼津の素材で、できることを探す
経歴を語り終えた二人は、これからの話へ。
水野さんのミッションは「地域産品の商品開発」。
今は素材を探している最中で、戸田橘のペーストを使った商品を模索中だ。
「地域で余って困っているものや、お困りごとを解決する形で何かできないか」と参加者にも呼びかけた。

戸田に、最高の酒屋をつくる
伊藤さんの構想は、少し意外な方向に転んだ。
「戸田にビジネスとして入り込むだけでは難しい。地元にどれだけ溶け込めるかが大事」と言う伊藤さんが考えているのは、「最高に面白い酒屋」だ。
戸田には今、酒屋が一軒もない。
飲食店に卸す酒も、峠を越えて運ぶしかなく、業者からも「あまり行きたくない」と言われる始末。観光客が地酒を買える店もなければ、個人的においしいお酒が手に入らなくて困っている、という切実な事情もある。
角打ちを併設して、地元の人が立ち寄り、観光客が混ざり、一杯飲みながら話が弾む場所をつくる。
長期的には、地域内交通の問題や移住定着の施策にも取り組んでいきたいと言う。
「戸田の素晴らしさを100年先まで残したい。
本当にすべて残ると言い切れないけど、自分にできることを少しずつやっていく」
その言葉には、確かな覚悟があった。
「私の大好きな沼津」を、「私たちの大好きな沼津」に
二人はまだ、沼津に戻ってきたばかりだ。でもすでに、その「ただいま」は、地域の人たちの心に届き始めている。

