世界での挑戦・地域での挑戦【宇野秀彦さん】
135年の重みを、未来へ運ぶ。
「(コロナ禍の中でどんなに努力しても)潰れる時は潰れる。そう腹を括ったからこそ、変化を恐れず挑戦しなければと思えたんです。」
沼津駅の弁当売り場に、明治時代から変わらず並ぶ折り詰め弁当。その紐でしっかり結ばれた姿は、135年という時間を静かに物語っている。
株式会社桃中軒の代表取締役社長・宇野秀彦さんは、その重みを背負いながら、今まさに新しい時代への船出を試みている。

「火ヨル」—沼津の夜に灯る、対話の場
この言葉は、沼津で新たに始まった取り組み「火曜日のヨル喫茶(通称 “火ヨル”)の第1回目で語られたものだ。
「火ヨル」の原型は、浜松で生まれた「水曜日のヨル喫茶(水ヨル)」にある。ゲストの話を「ツマミ」に人と人がつながる。
セミナーでも講演会でもない、肩書や職業から解放された対話の場。
インタビュアーを務めたのは、その水ヨルを浜松で育ててきた「鳥善」6代目・伊達善隆さん。鳥善もまた明治元年(1868年)創業、徳川家との縁を持つ老舗だ。

幕末から令和へ、老舗同士のキャッチボール。会場が和やかな雰囲気になる中、宇野さんの話はいつの間にか、沼津と自分、過去と未来をつないでいた。
世界を見てから、沼津へ
宇野さんの経歴は、老舗の駅弁屋の跡取りとしては、少し意外な道を歩んでいる。
中学卒業後、「広い世界を見たい」という思いから単身渡米。ミズーリ州セントルイスのワシントン大学で経営学を学び、その後ジェネラルモーターズの日本販売プロジェクトに参画。そしてUCLAの大学院へ進学し、ルームメイトたちと日本の漫画雑誌『ジャンプ』のビジネスモデルをアメリカで展開する起業まで経験した。
「高校はなるべく日本人のいないところを選んで行っていた。甘えが出てしまうから」と、当時を振り返る宇野さん。大学院進学前には、横浜の老舗・崎陽軒で約1年間修行を積み、飯炊きから始まって弁当作りの基礎を体に刻んだ。
2001年、UCLAを卒業した宇野さんは桃中軒に戻る決断をする。

「100年以上続く家業があって、そのアセットを使って何か新しいことができないかと思っていました」
世界を舞台に培ったビジネスの視点と、地元への愛着。その両方を抱えたまま、宇野さんの桃中軒での歳月が始まった。
江戸から明治へ—宇野家が沼津に根を張るまで
桃中軒を語るには、まず宇野家がこの地に辿り着いた物語から始めなければならない。
時は幕末。大政奉還を経て徳川慶喜が江戸から駿府(現・静岡)へと退いたとき、多くの幕臣たちが主君とともに新天地へ移り住んだ。宇野家もその一族だった。
「うちの先祖は徳川慶喜と一緒に静岡藩に下ってきたんです。大政奉還ですね」と、宇野さんはさらりと言う。
その先祖はもともと徳川家の旗本として江戸に仕えていた。
静岡藩での配置は、沼津だった。

「駿河の中で偉い人たちは静岡の方にいて、沼津は一番東側の端、最前線の防壁だったんだと思います。うちはそちらの方でした」
江戸幕府という巨大な組織が崩れ、武士という身分も消えていく激動の時代に、宇野家は沼津の地で新たな生き方を模索することになる。
しかし士族としての「信用」は残っていた。その信用こそが、次の扉を開く鍵になる。
明治24年—鉄道という「変革」に
1889年(明治22年)、東海道本線が開通し、沼津駅が開業した。その2年後の1891年(明治24年)、御用邸近くの当時桃畑が多くあった桃郷という土地でお茶屋を営んでいた宇野家の先祖に、声がかかった。
「当時の鉄道というのは、今で言えばインターネットが始まったようなもの。物事が動くスピードが根本から変わった。国家的な事業の中で、士族としての信用があったからこそ、お声がかかったんだと思います」
こうして誕生した「桃中軒」の名は、地名「桃郷」に由来し、「桃畑の中の一軒家」から来る。
「昭和初期の弁当の詰め方も、掛け紙をかけて紐で結ぶ仕上げも、基本的にはほとんど変わっていない。130年以上、やっていることの核心は同じなんです」
当時は売店もなく、駅のホームで売り子が列車に向かって「弁当はいかがですか」と立ち売りをする時代だった。列車が止まる短い時間に、弁当を手渡しするあの風景が、桃中軒の原風景だ。
宇野さんが帰郷後に手がけた商品が「港あじ鮨」だ。当時、他社のアジの押し寿司が人気だったが、ただ追いかけるのではなく、沼津らしい差別化を考えた。
昔からあったわさびを使ったお弁当と組み合わせ、生わさびを 1 本丸ごと入れることで独自の一品に仕上げた。
「サバは好き嫌いが多いので、もっと多くの人に楽しんでもらえるアジを選びました。値段
と美味しさのバランスが取れるまで、改良を重ねました。」
マーケティングを学んだ男の、直感と誠実さが滲み出る言葉だった。

工場が止まった日
2020 年春、コロナ禍が日本を覆った。
移動する人がいなくなれば、駅弁は売れない。売上は一気に 95%減。
「本当に、みるみるうちに悪くなっていった。4 月にはもう、これ以上やってもしょうがないと思って、工場を止めました」
1.5 ヶ月間の完全休業。創業以来で、戦時中でも止まったことのなかった工場が、初めて沈
黙した。
「戦争中は軍隊のお弁当を作っていたそうです。だからコロナのあの時が、本当に初めてだ
ったと思います」
深刻な状況の中で、宇野さんはあるお弁当屋さんが冷凍技術を使っていると聞く。
半信半疑ながらも、連絡したその次の日に冷凍機メーカーの担当者と会う機会が生まれた。
「明日、冷凍機屋さんが来るから来ない?って言われて、いきなり(笑)」

そこで出会ったのが「プロトン凍結機」。磁力と風の力で食品の細胞を壊さずに冷凍できる技術だった。
「冷凍弁当で一番難しいのはごはんなんです。でもこの機械は、解凍しても本当に美味しい。
そこで全部変わりました」
半径50キロの壁が、消えた日
その技術は、桃中軒の事業を根本から変える可能性を持っていた。
「お弁当って、基本的に消費期限がその日中なんです。だから物理的に商圏が半径 50〜60
キロに限られてしまう。でも冷凍技術があれば、それがなくなる」
全国へ、そして世界へ。
2026 年 3 月、ロサンゼルス郊外のジャパンフェスティバルで日本より送り販売した「鯛めしおにぎり弁当」は好評を博した。学生時代に青春を過ごしたカリフォルニアの地で、明治時代から受け継がれたレシピが、最新技術に乗って再び飛び立った瞬間だった。
「明治のレシピを最新技術で世界に届ける、、、なんか感慨深いですよね」
と、似たような境遇である伊達さんが感嘆の声をあげた。

地元では三島駅の売店を改装し、外国人観光客に視覚でアピールする蝋細工のディスプレイを導入。
また地域の学会の取り組みで、観光庁の支援を受けた体験型インバウンドツアー「祝旅」も立ち上げた。まだまだ外国人に知られていない徳川幕府の代官だった江川家の屋敷で白無垢体験や、200 年前の婚礼料理を再現した晩餐会を盛り込んだ、本物の日本文化を深く体験できる内容だ。
葛藤の先に見えた、自分らしさ
アメリカで学んできたことを、会社にもっと役立てられるのではないか、、、
そんな葛藤があったと、宇野さんは率直に語る。
「海外で経験してきた自分だからこそ、もっとできることがあるのではないかという思いはありました。その中でテクノロジーを導入したことで、自分の強みを活かす糸口が見えてきた気がします。」
コロナ禍という厳しい状況の中で覚悟が決まり、挑戦する勇気を持つことができた。
そして、その先に自己実現の手応えを見出したという。
そのバランスについて尋ねると、宇野さんは静かに笑みを浮かべた。
「(コロナ禍の中でどんなに努力しても)潰れるときは潰れる。そう腹を括ったからこそ、
変化を恐れず挑戦しなければと思えたんです。」

ご先祖様への感謝として
会場でかつて宇野家の地域貢献について質問した参加者は、その歴史への思いを尋ねた。

青年会議所、ライオンズクラブ、ロータリークラブ——先代たちが沼津に刻んできた足跡への問いかけに、宇野さんは言葉を選ぶように答えた。
「今の自分があるのは、ご先祖様と地域のおかげ。うちみたいな会社は、地元を大切にしていくことが大事だし、それによって残ってこれた。だから、そこへの感謝ですよね」
明治から令和へ。135 年の重みを、宇野秀彦は今日も食と文化を未来へと運んでいる。
「火ヨル」の語り合いが終わっても、その言葉はしばらく場に漂っていた。沼津という街に、こうして人の想いが積み重なっていく。


